星空のミシェル
Prequel Ⅰ Pulse――14才



誰もいない。誰も知らない。闇の中を過ぎる影……。車輪の摩擦と金属の和合が響き合う。そんな特別な空間で僕はその声を聞いた。
記憶の地下に眠るアニマ……。闇の中で泣いている。
あれは誰?
時間に置き去りにされた少女……。それとも、無意識の中の僕?

闇は息づいていた。理想はいつも、僕の手の届かないところ、天空の彼方で輝いている。あとほんの少しで届きそうなのに、いつだって間に合わずに空回りしてた。宇宙は一つではない。そして、運命も……。願えば違えることだって可能だ。そう。僕は運命の波動を変えたいんだ。

その螺旋を途切れさせてはいけない。
けれど、容認出来ない運命を受け入れるつもりはない。最大限の抵抗を試みる。どんなことがあっても、僕は諦めない。たとえ銀河の神々を敵に回したとしても……。僕は運命の螺旋を紡ぐ。その新たな奇跡を、大いなる記憶を心に深く刻みつけるために……。

「雨……?」
地下鉄の24番ホームに着いた時、すれ違う人のマンテルに染み込んだ湿気が僕の鼻腔に独特の感覚を齎した。傘を持っている人はちらほらいたが、そのどれも広げた様子はなく、雫がしたたっていることもなかった。
「気のせいかな?」
僕はICチップで改札を抜けると32メートルうえの高低を巡るエレベータで地上へ出た。

季節は冬が終わり、春になろうとしているのに風が冷たかった。標高の高い山に囲まれている立地のせいかもしれないし、空一面をどんよりと覆っている雲のせいかもしれない。どちらにしても確かに雨は時間の問題で降り出してきそうだった。
「降らなければいいのに……」
駅前にひっそりと建っている時計塔に刻まれた梟を見つめた。3時24分。もう2時間もすれば日が暮れる。内陸といっても、そこは大学のあるブレーンワルトからは1,200キロも離れた飛び地のような街だった。アクセスは地下鉄と峠を渡る街道が一本あるだけ……。四方を山脈に囲まれて人々は農業と林業で生計を立てている。いわば閉ざされた街だった。

しかし、この街にはこの街の良いところがある。温厚で気立てのよい気質の人々は独立独歩の精神を有し、他人に干渉することを好まない。何より、一度地下鉄の人ごみに紛れてしまえば誰にも知られずにこっそりとこの街に来ることが出来た。そして、ここでは、僕のことを知る者は限られている。だからこそ、僕はこの街を選んだ。

ぽつぽつと空から舞い降りた雫が僕の肩を濡らした。湿気を含んだ風が重い……。僕は急いだ。モノクロームの人影が何人も僕の脇を通り過ぎる。が、タクシー乗り場は空いていた。前には二人連れの男性と老婆、それに赤ちゃんをベビーカーに乗せた婦人がいるだけ……。僕の順番はすぐにきた。すっと自動ドアが開いて僕は無人タクシーに乗り込んだ。
「どうぞ。行き先を音声またはタッチパネルで入力してください」
無機質な合成音声が流れた。浮かび上がった3D地図に触れて確定すると、僕はゆったりとした座席にもたれた。
「ベウリッツァー総合医学研究所ですね? かしこまりました。所要時間は17分です。シートを倒しておくつろぎください」
車は振動もなく出発した。

走り出してからおよそ2分。雨が降り出した。雨粒が窓に当たって流されていく……。時折、フラッシュのような稲光が空を覆い、雷鳴が聞こえた。春の嵐のようだった。降り出すとこの辺りは豪雨になる。こんなことなら傘を持ってくるんだった……。そんな僕のことを嘲笑うかのように雨はどんどん激しさを増した。風も強くなってきて前が見えないほどだ。けど、これはコンピュータによる自動運転システム。天候に左右されることはない。車は予定通り街道を進んだ。
「あと5分……」
南のガーデルン街道の外れに、この街で2番目に大きな総合病院と医学研究所が併設されている。僕はそこへ向かっていた。


そこに到着した時、雨は小降りになっていた。僕はタクシーから降りるとすぐに病院の白い建物の脇をすり抜け、隣接する研究所の地下へ続く階段を降りていった。天気が悪かったせいか、誰にも会わずに済んだ。途中、2度のセキュリティーチェックを通過する。ここに来るのは1ヶ月半振りのことだった。密閉された通路は機密性が高く、まるで宇宙船の中にいるような錯覚に陥る。もう自分自身の靴音に怯えて振り返ることはなくなったけれど、そんな風に成長した僕を彼女に見て欲しかった。いや、そうではない。僕は、もう一度戻りたかったのかもしれない。彼女と同じ時間に……。決して戻ることなど出来ないと知りながら……。

ここでは室温も湿度も一定に保たれている。乾いた空気が循環し、さっき濡れた僕の服はもう乾いていた。B713と書かれたプレートの前で僕は止まった。そして、扉を開くための暗証番号を入力する。そこで眠る大切な人に会うために……。
彼女はもう4年の間、ずっとカプセルの中で眠っている。白い吐息と敷き詰められた花の中で……。
「会いたかった……」
僕は膝を突き、彼女を包む銀色のカプセルを抱き締めた。直接触れることは叶わないけれど、透けるクリアガラスの前面からは彼女のやさしい寝顔を覗むことが出来る。僅かに微笑した唇や今にも瞬きしそうな長い睫の目元……。そして、いつも僕を庇い、安らぎをくれた白い指先……。だけど、彼女の鼓動は聞こえない。その体温さえも感じない。規則正しく漏れ聞こえるのは彼女を生かし続けるために繋がれた機械の音ばかりだった。

「ごめんね。君を蘇生させてあげるのは、もう少し先になりそうなんだ」
前回、ここを訪れた時、所長に言われた。
――残念だが、今の段階では彼女を組成させることは難しい
――何故です?
――彼女の負った傷は致命傷に近い。損傷した動脈と心臓の接合をどうするか、気管支と肺の問題をどうするか、移植するにせよ人口臓器を使うにせよオペレーションは困難を極めるだろう。どちらにしても、今の技術ではリスクが高過ぎる。解凍するのは危険だ

では、あと何の技術が必要なのだろう? 僕は考えた。君を救うために必要ならば、僕はどんな努力も惜しまない。僕は既に医学を学び、医師の資格を取得した。実践では未だ経験値が足りないけれど、こんなに早く試験にパスした学生は類を見ないと言われた。同時に苦言も呈されたけどね。僕は医者になることは許されていないから……。
それでも、僕は医学の知識が欲しかった。

僕が10才の時、あの事件が起きて両親と君を失った。でも、辛うじて君を冷凍睡眠させ、延命することに成功した。だから僕はすぐに医学部へ入り直した。8才の時から大学に入学し、既に2つの学部を履修し終えていた僕にとって、それはさして難しいことではなかった。

ただ、医学部は他の学部と違って学科のみなら1年半に短縮出来たが、実際に経験を積むための実習期間2年は短縮出来ない。それを経なければ受験資格をもらえないからだ。そして、2年。僕はその試験にも合格した。通常なら8年かかるところを3年半でパスしたのだからそれは確かに類を見ない速さだったのだろう。でも、僕はちっともうれしくなかった。僕は他の人達と違い、資格を取ったからといって医学に貢献することは出来ない。僕が自由に使える時間は限られているのだ。

あと6年。僕が二十歳になるまでの間だけ……。

だから、僕はその間にいろんなことを学び、経験しておきたい。
それに……これは随分身勝手なことかもしれないけれど、僕はどうしても君を助けたいんだ。僕を庇って重傷を負い、今はカプセルで眠っている君を……。

そのためなら何だってする。
君を手に入れるためなら何だって……。
無秩序に並んだ機械と電気系統の配線が壁を這い、床に散らばっている。その幾つかが向こうの壁にそして、幾つかがカプセルを維持するための装置へと繋がっている。

僕は君が欲しいんだ。
ずっと君が好きだった……。
たとえどんなに年の差があろうと構わない。
身分の差なんか関係ない。
僕は王になるのだから……。
そしたら、きっと君を后に迎える。
いいでしょう?
僕の……愛しいシャーロッテ……。

「愛しているよ……」
僕はそっと透明なカプセルの上からその頬を撫でた。
「次はバイオテクノロジーと工学を学ぶよ」
必要な技術はすべて習得する。それから原子エネルギーと都市計画。どれもきっと僕達の星で役に立つだろう。
「それにね、今、僕はロボットを作ってるんだ。完成したら僕達の宇宙船を作るためのサポートをしてくれるようになるだろう。そうしたら、君をこんな寂しい場所に独りぼっちで置いておくなんてことはしないよ。あれが完成したら、いつだって一緒にいられる。それまでどうか待っていて欲しい」

ふっと光が揺らめいた。そして、唐突に明かりが消えた。しかし、カプセルに灯った小さな灯火は消えない。冷凍睡眠用のカプセルはそれぞれに皆、独立した回路を持っている。もし何らかの理由で電源を喪失したら、致命的な事態に陥ってしまうからだ。ここにも彼女を守るための特別回路が用意されていた。しかし、それは本来設置されていた物ではない。研究所の許可を得て、僕が特別に増設した装置だ。

ここは本来、冷凍睡眠を推奨している訳ではないし、設備が整っている施設でもなかった。僕が大学で学んでいる間、彼女を守ってくれる場所……。誰にも見つからない場所を探してここにたどり着いた。彼女をここに預けてからもう3年になる。平穏に過ぎたその間、僕は時々ここを訪れて彼女に面会していた。
「おかしいな。非常用の電源も作動しないなんて……」
部屋の明かりが消えたままだったので、僕はカプセルの小さな光を頼りに壁際に設置されている配電盤と安全装置をチェックした。が、何度やり直しても明かりは点かない。
「さっき雷が鳴っていたから、変電所に落雷でもあったかな?」
僕は情報を得ようとインターホンを取った。が、それも無駄だった。

「妙だな」
緊急連絡用の機器にはそれぞれ非常用バッテリーが装填されている筈だ。なのに、それらがすべて使用出来なくなるなんてことがあるだろうか? 僕はポケットから携帯の端末を取り出すと外部に連絡を取ろうとした。が、情報が遮断され、画面には何も映っていなかった。
「どういうことなんだ……?」
僕は端末をしまうとペンライトで周囲を照らす。さっきまで聞こえていた機械のノイズが一切聞こえなくなっていた。一抹の不安……。そこに空調から逆流してくるゴーッという風の音が響いた。それから床が左右に揺れた。
「地震……?」
僕はカプセルを抱き締めた。その中で眠る彼女は相変わらず初々しい少女のような微笑を浮かべている。

「シャル……」
暗闇の中で孤独な時間が過ぎていく……。僕自身の鼓動が耳の奥で響いていた。けれど、それがまるで気味の鼓動のようで、その頬が僅かに赤らんだように見えて、僕は独りではないのだと強く感じた。まるで時が静止したような静寂の中で、僕はずっと昔のことを考えていた。

君と初めて会った時……。僕はまだ6つの子供だった。

――初めまして。私、この度、王子直属の護衛の任をおおせつかりましたシャーロッテ グリーンバルツ ライアネルにございます

輝いていた。男装の麗人という呼称は彼女にこそ相応しい。そう感じた。強くて美しい……。それでいて厳しさの中にもやさしさがある魅力的な人……。まだ幼かった僕を何度もその手で救ってくれた。そして、僕を叱り、励ましてくれたのも彼女だった。

僕はすっかり君の虜になり、心の恋人になった。あれからずっと僕は夢見てた。ずっと君を……君だけを抱き締めていられたら……僕はもう何もいらない……。それがもし、今なのだとしたら……? それでもいい。もし、それが叶うなら、僕はずっとそうしていたかった。たとえこの世の終わりがきたとしても君と一緒ならば怖くない。

――いけません

頭の中に声が響いた。

――弱気になられてはいけません。このシャーロッテ グリーンバルツの命に代えても必ずあなたをお守り致します。だから……

「だから……」
淡い光に包まれてその顔立ちがくっきりと浮きたって見えた。燐とした態度。その唇が僕を昔のように叱咤する。

――あなたはメルビアーナにとって必要な方なのです

「僕が必要?」

――そう。皆があなたを必要とし、寵愛を求めるでしょう。どうぞそのことを忘れないでください。銀河があなたを欲しているのです。どうぞ賢帝におなりください。あなたならきっとなれる。私は信じております

「きっと……?」
開かない瞼。動かない唇……。それでも僕は満足した。こうしているだけで僕はうれしい。ただ、ここにいる。それだけで……
僕自身の体温で温まったガラスの扉……。それをそっと指先でなぞる。

――皆があなたの寵愛を求め……

「わかっています……。だけど、教えて欲しい……」
ガラス越しに僕は彼女を求め、流した涙にキスをした。
「僕は……誰に愛をもらえばいいのです?」
僕は星を継ぐ者として生まれ、幼い時からずっとそのための教育を受けてきた。そのために両親は殺され、僕を守るために君はこんな目に合って……。それでも、僕にそれを望むのですか?

――あなたは王になるのです。星を治める王に……。私の命など問題になりません

彼女はきっぱりと言って微笑んだ。
「わかりました……」
僕は頷いた。
「外の様子を見てきます。何だか不穏なにおいがする」

メルビアーナは銀河の中心、つまり、銀河中央大学のあるこの惑星ルチーナクロスから南西におよそ2万7千光年離れた場所に位置する辺境の惑星だった。が、銀河系唯一の王政独立国家でもある。小さいけれど豊かな自然と資源に恵まれた豊かな国……。その星で僕は生まれた。王の跡を継ぐ者として……。そして、君と出会った。僕を守る者として……。

軍人としての彼女も魅力的だったけど、僕は君のドレス姿が見たい。そして、それが僕のためのウェディングドレスだったら……。でも、きっと彼女は拒むだろう。彼女は女性の体を持って生まれながら、男性の心を持っている。そういう性質の者だから……。
それでも僕は構わないのだけれど……。

僕はペンライトで足元を照らしながら、ゆっくりと通路を戻っていった。静かだ。電源が落ちているのでセキュリティーも作動しない。僕は緊急避難用のシューターを開けた。内側からしか開かない脱出用の扉だ。そこを抜けると少しずつ外の音が聞こえてきた。雨の音だ。激しく叩きつけるような勢いで雨が降っている。風も強いようだ。そして、雷……。僕は通路の分岐点からラボに出た。でも、研究室には誰もいない。
「どうしたんだろう?」
僕は北側の連絡通路を通って病院の建物の前に出た。

「そんな……!」
景色が一変していた。辺り一面が水と泥に溢れている。それだけではない。病院の南側の斜面が抉れ、その土砂が建物に流れ込んでいた。建物は半壊し、1階はほぼ浸水状態。窓ガラスが割れてカーテンがはためいていた。そんな建物に雨は容赦なく降り、稲妻は闇の空を駆け巡った。その閃きが起こる度、不気味な怪物のように白い建物の残骸がガッと牙を剥いた。
「どうして……?」
僕はその場から動けずにいた。すぐ足元を濁流のような勢いで雨水が流れ、空は軋んで怒りをぶつける。
「中にいた人たちは……?」
白い建物は荒れ狂う自然のエネルギーに巻かれ、人間の気配が感じられない。けれど、ここは病院だ。人がいた筈だ。僕は外に向かって足を踏み出そうとした。

その時、背後から小走りに近づいてくる靴音が聞こえた。
「君、大丈夫か?」
声が反響した。それは若い男だった。白衣を着ているので、恐らくここの医師か研究員だろう。
「何があったんですか?」
「土石流が起きたんだ。君はラボの中にいたのか?」
彼は焦って訊いた。
「地下に……」
僕が答えると彼は更に質問してきた。
「他に誰かいたかい?」
「いいえ」
「そうか。なら、君が最後かな?」
「最後?」
「避難勧告が出たんだ。みんなもう先に避難している。おれ達も急ごう。また次が来るかもしれない」
みんな避難したと聞いて僕はほっとした。でも……。

「次もってどういうことですか?」
「アムステッド川が決壊したんだ」
「何ですって?」
アムステッド川はこの街で一番大きな川だった。山から下る幾つもの支流が合わさり、街の中央を横断している。風光明媚な散歩コースとして街の人達に親しまれていた。山から切り出した木を運ぶ水路や畑や飲料水としても使われている。この街の人達にとっては最も身近でなくてはならない水源の一つだった。無論、治水工事も整備もきちんと施されていた。それなのに何故?

「変電所に落雷があって送電が止まってしまったんだ。それでダムの放水システムの誤作動が起きて……」
「シェルターは?」
「点検修理中で開いたままの状態にあった。ここ1週間ばかり雨が続いていたために工程が長引いていたらしい。その間、山にもたっぷり水が染み込んでいたからね。その水が一気に川へ流れ込んだらしいんだ。ここらは地盤が軟弱なんだ。大量の雨には耐えられなかったんだろう。それにしても、こんな事態は初めてだよ。ここは幸い高台になっていたからこれくらいで済んだけど……次に崩れたら危険かも……」
彼は早口で言うと、通路の奥を振り返った。
「そうしたら研究所は……」
僕も振り返った。
「この建物も……?」
土砂で埋まってしまう……。彼女も……。壁の向こうで、ヒューッと闇の嘶きのような音が響いた。風はいよいよ激しく、僕達の足元まで冷たい雨を吹きつけた。

「いざとなれば隔壁がある。でも……」
彼の頭髪や白衣からはポタポタと水滴が滴っていた。それがコンクリートの溜まりに落ちて小さな波紋を広げている。
「実は……ラボに研究用のモルモットがいてね。おれはそれが心配で見に来たんだ」
彼が言った。
「もちろん、人間の命が最優先されなきゃいけないってことはわかってる。でも……」
誰も責める者はいないのに、彼は何故か気まずそうな顔をした。
「もう、とっくにみんな逃げてしまってると思って……。こっそり持ち出そうとしてたんだ。そしたら、突然、君の靴音が聞こえて……」
「なら、助けに行こうよ」
僕は言った。その言葉に彼はぽかんとしていた。
「命に優劣なんかある訳ない。たとえ、それが実験用の動物だったとしても……。今は助けたらいい。あなたがそう望むのなら……」
「あ、ああ」
彼が返事したので、僕達はもう一度研究所の中へ入り掛けた。その時、雨に混じって女性の緊迫した声が響いた。
「助けて……!」
僕達は頷きあうと躊躇なく雨の中へと飛び出した。

南東の駐車場付近だった。病院の広いエントランスの自動扉は開いたまま泥水に覆われていた。風が吹き抜けて不気味な音階を奏でている。けれど、その声はそこから聞こえてきたのではない。崩れ掛けた壁の向こうからバシャバシャとしぶきを上げて駆けて来る人がいた。看護師姿のその女性は必死に叫び声を上げた。
「子供が車の下敷きに……! お願い! 早く助けて……!」
僕達がそこに駆けつけると土砂に運ばれて横転した車と病院の建物の隙間に小さな女の子が挟まれているのを見つけた。崩れた壁と潰れたバンパーとの隙間にすっぽりとはまる形で少女はうつ伏せていた。幸いだったのは歪んだ金属の上に載っていたため、溜まっていた泥水につからずに済んだこと。そしてエンジン部分が覆いかぶさっていたため、それが傘代わりとなり、呼吸も確保されていたことだった。

「助けに来たよ。大丈夫かい?」
僕が呼び掛けると女の子は右手を微かに震わせた。それから消えそうな声で、痛い……と言った。
「何処が痛いの? すぐに治してあげるからね」
僕はその子を安心させるようにその手を掴み、脈を取った。
「痛い……」
もう一度少女が言った。消え掛けたキャンドルの火のようだった。そして、脈拍も弱い。僕は何とか女の子を引きずり出せないかと試みた。でも、体の何処かが引っ掛かって少女は苦痛を漏らした。

「おれが何とか持ち上げてみるよ」
一緒にきた彼はそう言ってがんばってくれた。看護師の彼女も手を貸してくれ、3人掛かりで何とか隙間を広げようとした。が、車は頑として動かない。泣いている少女の声が細くなる。
「怖い……」
彼女はずっと目を閉じたままだった。もう瞼を開く力さえ残っていないのかもしれない。顔面は蒼白となり、呼吸も荒くなっていた。このままではまずい。せめてジャッキがあれば……。この車のトランクにあるかもしれないが、拉げた車のトランクは開きそうになかった。

その時、僕はふと壁から突き出している金属の輪を見つけた。そこに通っている太いケーブルがぐるぐると巻かれ壁に留めてあった。送電線を固定するためのフックだ。
「あれを使いましょう」
僕は留め具に手を伸ばした。でも、あと少しのところで届かない。
「おれがやろう。これを外せばいいのかい?」
僕より背の高い彼が結わえてあったプラカバーを外してくれた。こういう時、背の高い大人は得だ。彼は涼しい顔で訊いた。
「それで? これをどうするんだい?」
「車に結びつけて引っ張って欲しいんだ」
「なるほど。てこの原理だね?」
早速車の底面に掛けて試したが、なかなか思うようにはいかなかった。その音と振動に少女が怯えた。僕は彼女の手を握って励ました。

「大丈夫。ずっと僕が傍にいてあげるからね」
「ずっと……?」
「そう。ずっと……。だから安心して……怖がらないで。僕を信じているんだよ」
「ずっと……」
少女の意識が途切れた。衰弱が激しい。そして、雨も激しさを増していた。山の方からは低い地鳴りのような音も聞こえてくる。これでは何時、山腹が崩れてくるかわからない。
「急いで……」
何度も失敗したけれど、ようやくコツを掴んだ彼がぐいと力を込めた。僅かに隙間が広がった。
「今だ」
僕は看護師の彼女と協力して少女の体を引っ張り出した。スカートが裂け、右足に小さな擦過傷が出来たけれど、今は構っていられない。僕達は急いで建物の中に入った。雨を避けて少女の状態を早く診たかった。

手足にあるのは軽い裂傷。しかし、問題は他にあった。折れた肋骨が肺や胸膜を傷つけている可能性があったのだ。すぐにX線かグラフィックエコーで確認しなければならなかった。でも、ここでは電気が使えない。外部へ連絡を取ることも出来ない。少女の呼吸は止まり掛けていた。そして、心臓も弱っている。
「緊急オペの必要がある」
僕は言った。
「何故わかる?」
彼が訊いた。
「わかるさ。左胸部6、7番肋骨が折れてる。場合によっては複雑骨折。破片が血管を圧迫している可能性もあるし、内臓に損傷を与えているかもしれない……気胸の可能性もある。それに、内部に出血して溜まった血液を早く吸引しないと……」
「何故そんなことが言える?」

「僕は医者だ」

彼らは互いの顔を見合わせて頷いた。
「君か……14才で医師免許を取得したという天才児は……名前は確か……」
「……ミシェル」
僕はプライベートでのみ使用している名で答えた。
「ミシェル……。おれはヘンリー。申し訳ありません、ドクター。これからは敬語で話させてもらいます」
「やめてよ、年なんか関係ない。要はこの子を助けたいだけなんだ。ここはあとどれくらい持つ? オペ室は使えないだろうか。人工呼吸器が欲しい。検査もしたい。それと薬に消毒薬にオペレーション用具一式………」
「無理よ。オペ室は2階にあったの。さっきの土砂崩れで2階は滅茶苦茶……電気もないし……」
看護師が言った。
「ヘンリー、あなたは? 白衣を着てるけど……ここの医師じゃないの?」
「おれは研究員だ。しかもまだ学生さ。君とは違うよ」
僕はその言い方が癇に障った。実際、僕の腕の中で一人の少女が死に掛けているんだ。それなのに……。

「いや、諦めるのは早い。まだ使える物があるかもしれない」
気を取り直したのか、突然ヘンリーが言った。
「そうだわ。北側の薬品戸棚……あそこにならまだ無事な物が残っているかも……」
彼女も言った。
「そっちは頼むよ。僕はこの子を連れてラボへ行く」
そこには多分実験用の器具や簡単な機械もある筈だった。僕はそれらを動かす決意をした。
「ラボか。確かに、そこなら簡単な医療設備が揃っている。いざとなれば隔壁を下ろしてしまえば濁流や土砂崩れからも身を守れる」
「でも、電気がないわ。機械があったとしてもどうやって動かすの?」
彼女が不安そうに訊いた。
「僕に任せて。電源は確保する」

僕達はすぐに研究所へと移動した。病院からも使える物は出来るだけ運んだ。そして、僕達がそこへ入った直後、2度目の落盤が起きた。けど、ここはシェルターの役割も果たしているので大丈夫。ヘンリーが素早く隔壁を下ろし、外部からの空気を遮断してくれた。
清潔な白衣と清潔なシーツを確保し、彼女が探してきてくれた人工呼吸器を装着する。そして、動物実験用ではあったが、ヘンリーがX線やMRIなどの検査機械がある場所を教えてくれた。さすがに自動オペレーションシステムまではなかったが、これらが使えれば的確な診断と治療が出来る。
「もしも血圧が低下したら、昇圧剤を投与して!」
僕は彼らに幾つか支持を与えると全速で地下へ向かった。

「シャル……」
僕は再びB713号室を訪れた。でも、今度は涙を流すためじゃない。
「君の力を貸して欲しい」
僕は彼女のカプセルに繋がっているケーブルを外した。彼女の最後の灯火だったパイロットランプが消えていく……。だけど、僕は後悔しない。君もきっとそれを望むに違いない。そう確信をもって言えるから……。
「さよなら。僕の愛する人……」
電源装置は温まっていた。君の命の糧だったバッテリーを持って僕は走った。

それから、僕は少女の元に戻り、大急ぎでそれらをセットした。
「先生、呼吸が……!」
看護師が叫んだ。
「弛緩剤を……あと0.2ミリ用意して……。気管挿入をやり直す」
もともとサイズの合わない器具だった。僕は気管を傷つけないように慎重に作業した。しかし、それが裏目に出てしまった。でも、もう一度やり直すしかない。何が何でも呼吸を確保しなければ……。緊張した筋を緩ませ、神経を沈静化し、何とか器具を挿入することに成功した。それから検査を開始する。時間がないので簡易画像で確認した。それでも必要な情報は十分得られる。一刻の猶予もなかった。僕はメスを取った。

「手で開くつもりですか? オペレーション(機械)もなしに……」
彼が驚いて訊く。
「昔はみんな手で行っていたんだ。コッフェルを用意して……。僕の指示通りに器具を渡すんだ。いいね? さあ、開始するよ」
彼らは緊張した面持ちで頷いた。でも、僕だってそうだ。術式はすべて頭に入っている。けど、実践するのは初めてだ。緊張してる。失敗は許されないんだ。それでも、今はやるしかない。

胸部を開くと予想した通り、折れた肋骨の欠片が肺を傷つけ、静脈を圧迫していた。僕は溜まっていた血液を吸引し、骨の欠片を取り除くと傷を縫合した。応急処置でしかないけれど、少女の命を救うことを最優先に考えた。助手の二人もがんばってくれた。

時間は……? 麻酔の量は適切だったか、再出血の可能性は……? 輸血に必要な血は……? 人工血液を解凍して……。でもそれだけじゃ足りない。滅菌ガーゼをもう少し……縫合用の糸が短すぎる。代替えの薬品の計算と投与時間は……。やることは山ほどあった。そして、考えることも……。でも、僕は目の前にあることに集中した。その小さな作業の一つ一つを丁寧に仕上げること。ただ、それだけのことに……。

そして、手術は終了した。
想定していた時間をかなりオーバーしたけれど、容態は落ち着いている。あとは経過を観察し、専門の医師に渡すことが出来れば…。

――よくやりました。あなたは最高の君主です。あなたは、わたしにとって最高の……

「シャル……」
光が差し込んでいた。僕はいつの間にか清潔なベッドに寝かされていた。窓の向こうで鳥が鳴いている。
「シャーロッテ……」
僕は慌てて半身を起こした。彼女がここにいる筈がないのに、とても近くにいた……そんな気がした。それにしても、一体……。
「ここは……? 部屋には様々なモニターや機械に固定された管が隣のベッドに向かって伸びている。そうか。ここは、ICU(集中治療室)」
命を守るために最新の医療機器に囲まれて少女がベッドに寝かされていた。チューブに繋がれ、胸部には痛々しく包帯が巻かれていたけれど、少女は笑っていた。それを見て、僕も笑い掛ける。

突然、ノックの音が響いた。
「お目覚めですか?」
「エルバ……」
彼は僕のお目付け役。シャルの後輩に当たる軍人だ。一見自由に見えても僕の行動のすべては監視されている。
「今度ばかりは上手くいったと思ったんだけどね」
また、エルバのお説教を長々と聞かされるのかと思うと気が滅入った。
「あまり無茶をなさらないでください。今度ばかりは肝を冷やしました。居場所を特定するのにどれくらい費やしたと思います?」
「少なくても18時間はフリーでいられたということみたいだね。記録かな?」
今は、午前6時35分。昨日、ブレーンワルトの大学を出たのが昼の12時半だったので、僕は逆算して告げた。オペが終了したのが午前1時16分。あれから5時間が経過していたが、少女の様子に変化はない。僕は満足した。

「おふざけにならないで、真面目にお考えください」
「僕はいつだって真面目なんだけど……」
僕はふと首を竦めて窓の外を見た。昨日とは打って変わり清々しい青空が広がっていた。それは、本当に美しい空だった。ここの人達が何故、自然と共に暮らし、気象コントローラーを設置しようとしないのか、少しだけ理解出来たような気がする。
「ところで、どうして僕もここにいるんだろう?」
「覚えていらっしゃいませんか? どうしてもこの子の傍に付いていると言い張って離れようとしないので院長に頼んで一緒にここへ連れて参りました」
「そうだったのか。それはどうも。迷惑掛けたね」
僕はふと少女の寝顔を見た。

「心配ございません。術後の経過は良好。彼女は順調に回復に向かっているそうです」
「よかった」
「それから、ライオネル中尉のカプセルも無事に回収致しました」
エルバは小さく咳払いして言った。
「え? ほんとに? 彼女は無事だったのか?」
「はい。あなた様が組み込まれたセカンドバッテリーが機能しておりまして、あと32分という際どいところで回収されました。今はコルネラードの病院にて経過を観察中です」
「よかった……」
僕は心底ほっとした。

「ですから、すぐにお戻りください」
エルバは深々と頭を下げて言った。
「そうだね」
僕はベッドから降りた。
「でも……」
僕はもう一度少女を見た。
「もう少し……せめて彼女が目覚めるまで、ここにいちゃいけないかな? 約束したんだ」

――ずっと傍にいる

「いいえ。あなたは昨日、ずっとブレーンワルドの大学で講義を受けていたことになっております。院長をはじめ、ベルクウッドシティーの者達は皆承知しております」
「この子に危険が及ぶかもしれないということか?」
「はい。反対派の連中に悟られてはなりません」
「わかった」
僕は首から提げていた十字架のペンダントをそっと外すと少女の手に掛けてやった。
「約束したのに……ごめんね。代わりにこれを……僕の心を置いていくよ」
僕は彼女の手を軽く握った。すると少女も僕の手を握り返してきた。それは単なる反射に過ぎなかったのかもしれないけれど、僕はうれしかった。もう一度その手を強く握ると僕は部屋を出た。
「元気になるんだよ」

廊下に出ると院長と昨夜の二人が待っていた。
「ミシェル……様。昨夜は本当にありがとうございました」
院長が少女の経過を説明し、何度もお礼を述べてくれた。
「あなたにお会い出来て本当に感謝しています」
「オペの助手なんて初めての経験だったのでとてもよい勉強になりました」
二人はそう言って何度も頭を下げた。
「もし、あの場に君がいなかったらどうなっていたことか……。おれ……本当に足手まといになっていませんでしたか?」
ヘンリーが言った。
「君はよくやってくれたよ。だから、気にしないで。僕も初めての経験だったんだから……」
「え?」
二人はあんぐりと口を開けた。
「あとは経験豊富なドクターに任せるから……。あの子のこと、よろしくね」
二人は何度も深く頭を下げた。

玄関を出ると迎えのヘリコプターが待っていた。
「本当にありがとうございました。ミシェル……あなたのことは一生忘れません」
「どうぞ、お気をつけて……」
窓という窓からみんなが顔を出し、手を振ってくれた。僕も彼らの姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けた。
「そんなに身を乗り出して落ちないでくださいよ。王子をヘリコプターから落とした罪で軍法会議に掛けられるのは御免ですからね」
エルバが言った。
「僕だって御免だよ。ここから落ちたら骨折じゃ済まないもの。そんなことより、君の方こそ、こういう派手な演出やめようよ。目立ち過ぎるから……」
「仕方がなかったんです。街道も地下鉄も復旧していないんですから……」
「そうだね……」

一夜明け、上空から見下ろした街には甚大な傷跡が残っていた。しかし、幸いなことに人命が失われることはなかった。僕が救ったあの少女も2週間後には元気になって退院したと聞いた。空には白い雲が浮かび、青空に映えるヘリコプターの赤い金属板に朝の光が美しく反射していた。

Fin